■歴史と運命の交錯する清洲城を1/300サイズのペーパークラフトとして再現しました。
■最盛期の清洲城は、五条川を利用した3重の堀、大天守、小天守、書院を備え、東西1.6km、南北2.8kmの規模の城郭となり、城下町も整備され東海一の人口を誇っていました。
町の中心街は城より西に広がり、五条川の水路、鎌倉街道の陸路が通り、交通の要所となる戦略上重要な城として発展しました。
■清洲城は応永12年(1405)、尾張・遠江・越前守護の斯波義重によって築城されました。守護所が下津城から清洲に移転したことによって尾張国の中心地となり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能しました。
■弘治元年(1555)に織田信長が入城すると、10年間本拠地として居城しました。桶狭間への出陣前に詠われた「敦盛」や永禄5年(1562)に信長と徳川家康の間で結ばれた同盟(清洲同盟)は有名です。
信長が本能寺の変で倒れると、清洲城にて清洲会議が行われ、後の豊臣秀吉の天下取りへの足がかりとなりました。
■江戸時代に入り、清洲藩の本拠地となりましたが、慶長15年(1610)家康による名古屋への遷府指令の下、清洲城は城下町ごと名古屋城へ移転されました(清洲越し)。その際、清洲城は名古屋城築城の資材として利用されました。今に残る名古屋城御深井丸西北隅櫓は、清洲城の天守を主な資材として作られた為、「清洲櫓」とも呼ばれています。
慶長18年(1613)名古屋城と城下町の移転が完了した事によって、「東海の巨鎮」「天下の名城」と呼ばれた清洲城は廃城となりました。城を失った後の清須は宿場町として新たに発展を遂げる事になります。
当時の臼引歌は、そのありさまをこう唄っています。
「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」
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