■関ヶ原の合戦後、西方大名への威光を示し守りの要として作られた名古屋城。 戦災で焼失する以前の姿を1/300サイズのペーパークラフトとして再現しました。
復元 : 佐藤大規
監修 : 三浦正幸(広島大学大学院教授)
<モデラー仕様>
■連結式層塔型で5重5階、地階1階の威容を持ち、その高さは石垣を含め55.6メートルと江戸城、徳川大坂城に次ぐ高さをもっています。天守の大棟には徳川の威光を示すための、金の板を貼り付けた金鯱が載せられ「金鯱城」、「金城」とも呼ばれました。
■名古屋城の起源は、今川氏親が築いた「柳ノ丸」と言われ、天文元年(1532)織田信秀が今川氏豊から奪取し「那古野城」と改名されました。織田信長はこの城で生まれたと言われます。弘治元年(1555)信長が本拠地を清洲城に移した為、那古野城は廃城となりました。
清洲城は長く尾張の中心として発展しましたが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢により江戸幕府の東海道の要所として、また大阪方への備えとして慶長14年(1609)名古屋に城を築く事を決め徳川家康の九男義直の居城としました。加藤清正、福島正則、前田利光等、西国の諸大名20名の助役による天下普請にて慶長17年(1612)に名古屋城天守閣が竣工しました。
■名古屋城は名古屋台地の西北端に位置し、北に広がる濃尾平野を一望できる軍事的な要地に立てられました。
構造は典型的な梯郭式平城で本丸を中心として南東に二の丸、南西を西丸、北西を御深井丸が配置され、広大な三の丸が西丸から二の丸を取り囲み、西と北の水堀と三の丸の外に作られた水堀や空堀に守られた外郭を構成しました。
■名古屋城天守の屋根は銅瓦が使用され緑色の屋根というイメージであるが、創建当時は最上階のみに銅瓦が葺かれていました。宝暦5年(1755)大天守の修復の際に現在見られる銅瓦葺きに変更され、雨水を通す縦樋や、破風を保護する銅板、地階に採光するための明り取り窓が追加されました。
壁面は樫の厚板を使用し、外面に30cmに及ぶ土壁を厚く盛り、その上に漆喰を塗っていました。当時の大砲では撃ちぬけない強度を誇っていたそうです。外観は優雅な姿をしていますが、戦闘時には土壁に塗りこめられた射撃用の隠狭間をはずす事で要塞としての一面を持っています。
スタッフブログにて作成方法の紹介をしています。細かな注意点など画像と文章で説明しています。参考にして見てください。
復元幕末名古屋城/スタッフブログ
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